2000-12-21 第150回国会 衆議院 憲法調査会 第7号
しかし、大衆大学としての一般の大学は、基本的に教養学部であるべきだというのが私の信念でございます。その後、大学院で専門課程を学んで決して遅いとは言えない。特に最近では年齢が、御承知のとおり実際に平均余命も非常に長くなっておりますので、その意味でも、社会的な損失でもない。
しかし、大衆大学としての一般の大学は、基本的に教養学部であるべきだというのが私の信念でございます。その後、大学院で専門課程を学んで決して遅いとは言えない。特に最近では年齢が、御承知のとおり実際に平均余命も非常に長くなっておりますので、その意味でも、社会的な損失でもない。
我々は大衆大学でありまして、校庭が新宿の駅頭のように思って対処していかなきゃならない、こう思っていたんですが、少数を相手とした学校と違いまして、そういうところでは万一のことがいろいろ起こるんですね。 それで、だれがやったというんじゃないけれども、一千名からの団交をやりますと、押しかけるとこっちは一人ですからつぶれちゃうんですよ。例えば足が下につかないんですね。こう押しつぶされそうになるんで……
それで、人と人との触れ合いというものが教育でありまして、そういう機械化されて計量されるようなもので人の能力はわからないのでありまして、一言だけ雑談をしますならば、コンピューターで大衆大学、我々がおりましたような一学部に一万人から受験者があるという、それをコンピューターにかけますと、同じような点数のところが一番多くて、一番できないというのとできるという人はちょうどひし形みたいになっているんです。
しかし、最近の情勢を見ると、研究の場というものがいわゆる大衆大学的な形からややもすると軽んぜられてきて、学問的水準というものが世界と比べて果たしてどうであろうか。割合に一部の科学技術については高い面もありますが、比較的文化科学においては非常に日本は弱い、世界的水準から見たらまだはるかに弱い、そういうふうに思いますし、科学技術の面においても、基礎科学において非常にまだ弱い面がある。
ここに大学の理事長でいらっしゃるある方の小さなエッセーがあるのですけれども、「今日の大衆大学の機能は、大学院は別として、学部教育のレベルでは〝教育手法の巧拙が真剣に問われるべき〟だと思うのである。学生の出席が悪いとか、授業中が騒がしいとか、学習意欲が欠けるとかの責任の半ばは教員の資質に係わると極言したい。〝わかる授業の展開〟が大衆大学の教員の資質の第一に掲げられるべきである。」
その場合に、さっきお話がございましたように大学の教養、専門、研究、大衆大学的な要素から、そういうあたりを一体どのレベルくらいに、簡単に言えば難問奇問になるのではないか、いまと同じようなことになるのではないかということのその辺の基準というのでしょうか、この辺がすきっとできないかということです。
大衆大学とそれから大学院を主とした大学と二つの大学で私は経験がございますが、なるほど東大のような博士課程までの大学院がそろっております大学の学部の学生にとってみますと、自分の大学に大学院があることは非常なメリットでございます。それからまた、自分が大学院に進学しようと思えば比較的簡単に進学できる事情にもございます。
つまり教育条件の整備ということでありまして、いろいろお話がありますように、ずっと大衆大学になってきまして、学生の数はどんどんふえてまいります。 ところが他方、大学のほうはそれに全然追いついていないというのが、まさに教育条件の整備がおくれていることでありまして、たとえば教官の場合で申しますと、これだけ学生がふえてくれば、当然教員の定員もふやさなければなりません。
○鈴木(一)委員 あなたのようなすぐれた学者が、つまらない一つまらないと言うと語弊がありますけれども、管理運営なんかで時間をとることなしに、鋭意そういった、いま私が御注文申し上げましたようなことで研究を進めてもらいたいと思うわけでありますが、そういうふうな観点からしますと、結局、いまの大学というものは、昔の少数エリートを養成したときの管理方式をそのまま大衆大学の中に持ち込んできている。
○鈴木(一)委員 また私のときにお伺いしますが、もう一つお尋ねしたいことは、アメリカの教育調査団が終戦後、たしか二十四、五年ごろだと思いますが、日本に来て、これからの大学というものはやはり社会に開かれた、窓を開いた、いわば大衆大学でなければならぬというふうなことから、管理運営方式についてはアメリカ方式と申しますか、学部自治とか、いまのような日本の大学じゃなくて、もっと広範な形の、たとえば卒業生とか社会
○鈴木(一)委員 さすが文部省の稗田阿礼といわれただけあって、記憶のいいことには驚いたわけですが、時間もありませんし、関連ですからこれでやめますけれども、結局、アメリカ式の大衆大学に形はしながら、実際の管理運営はドイツ方式のエリート大学方式であったというところに私はポイントがあると思うのです。ですから、まさにこれは文部省の失敗ですよ。今日の事態を起こしたのは政治の失敗ですよ。
将来の大学がいかにあるべきかという問題は、これは時間をかけていままでのようなエリート大学を大衆大学にするとか、あるいはまた大学の今後の運営の問題、特に国立をこれをやめて、全部国立、私立、公立を一本化して、これを国庫補助でやるとかいろいろな問題があると思う。したがって、そういう問題といまの大学の責任体制と一緒にがっちりやるとすればいつになるかわかりませんよ、当面する問題はどうするかということです。
これはもう大臣なんかも、大衆大学、国民大学というようなことを言われましたし、これは各党ともにそういうことを考えていると思うのです。それからもう一面は、活字の時代から視聴覚の時代に移ってきたというようなお話もございました。テレビやラジオにおける公開講座というものについて、これは大いに推進していくべきじゃないかとわれわれは思っているのでございます。
(拍手)第二に、科学技術の進歩発展に伴う社会構造の変革に即応し、大衆大学への新たなる展望を考慮して、大学制度の抜本的改革を断行すること。(拍手)第三に、教育者としての自覚と使命感に徹する教育者を多数養成するとともに、教育者の再教育を断行する体制を確立すること。
この研究大学と、それから専門大学、それと大衆大学という、この三つの大学のねらいはそれぞれ違っておりますけれども、その違っているはずのものが、今日同じ一つの大学という名前で一緒くたに考えられる。ある方向では自由でなければならないというようなことを言う。そうかと思うと、ある方向ではもう少し教育的でなくてはいけないと言う。ある方向では研究を重んじなければいけないと言う。
わが党も先般、大学問題に関する中間報告を発表いたしまして、大学院大学の設置とこれに伴う学校制度改革、大学の自治と学生の参加問題、カリキュラム等、大衆大学の新形態とその新使命をうたったのであります。政府は、少なくとも大学制度や大学の管理運営に関する新形態の具体的検討を急ぐとともに、これが実施に踏み切るべきであると思うのでございまするが、御所見を承ります。
三畳の部屋に寝起きして、高い部屋代を払い、ラーメンをすすりながらアルバイトをする味けない生活環境に置かれ、高い授業料、入学金を取られながら、マスプロ講義を受け、大衆大学に変わっておりながら、エリート意識の封建的な学校運営の中で、給与の少ない教授は研究に専念して、大学には教育はなくなっておる。大学の自治とはいっても、教授の自治でありまして、民主化を訴える学生の意見は取り上げられない。
従来のエリートを集めて教育をした大学が御承知のように大衆大学となった。これに対してある人たちは、経済の成長が国民の財政を豊かにしたから子弟の教育が盛んとなってこうなったんだというふうな楽観論も言うておる人があります。しかし私は、敗戦の中からわれわれが立ち上がったときに、文化国家というものを目ざしていこうじゃないかということでお互いが決意をしたと思うわけです。
今後大学の問題を検討し、何らかの改善を加えるということになりますれば、小林さんが言われる大衆大学というふうなことを念頭に置いて、これをどういうふうにやっていくかということは当然取り上げてしかるべき問題だと思います。